柏原平和池水害とは、今から約60年前の1951年(昭和26年)7月11日、詳徳小学校の校区「柏原(かせばら)」で実際に起きた水害です。犠牲になった方はこの柏原だけで75人。その中には子どもも25人含まれ、生まれたばかりの赤ちゃんまでもが尊い命を亡くしてしまいました。当時はラジオぐらいしか情報源はなく、天気予報や警戒警報などが今のように知らされない時代でした。柏原に住む人々は、まさか山の上にある平和池ダムが決壊して自分たちの集落に鉄砲水として襲ってくるとは、思いもよらなかったのです。
 詳徳小学校では数年前から、4年生がフィールドワークとして柏原平和池水害の学習を行い、水害の怖さや命の大切さ、伝えていくことの大切さなどを学んできました。そして平成24年度には「災害は忘れたころにやってくるのではなく、災害は忘れずにやってくるものである」(地元の方の言葉)という考えのもと、自分達にできることを考え、紙芝居による伝承の方法を思案し、その製作に乗り出し完成させました。
 わたしたちの学校、詳徳小学校は篠町柏原にあります。
 
 学校のまわりは田んぼや畑にかこまれ、田んぼの向こうには年谷川のていぼうが見えます。JRの線路の近くにはにはたくさんの家が建ち、多くの友だちがそこから学校に通っています。

 この紙しばいは、詳徳小学校ができるずっと前に、わたしたちの町であった絶対に忘れてはいけない柏原平和池水害の話です。

     
 今から60年あまり前、ぼくたちのおじいちゃんやばあちゃんがまだ子どもだったころ、亀岡に大きなダムが作られました。
 今の南つつじヶ丘の一番おくの寒谷(さぶたに)という大きな谷の水をかたい土のかべでせき止める形の最新型のダムでした。このダムには、学校のプールの約900ぱい分、20万トンもの水をためることができました。ダムにたまった水を少しずつ流して、田んぼに水を送ったり、大雨の時に洪水がおこらないようにしたりするために作られたそうです。

 ダムの名前は「平和池」 たくさんの人の命をうばった悲しい戦争が二度と起こらないようにという願いをこめて亀岡の中学生が考えた名前がつけられました。
     
 昭和26年7月11日。梅雨の終わりのころでした。

 前の日のカンカン照りがうそのように、この日は、亀岡は大雨になりました。夜中の2時ごろからふりだした雨はどんどんふり方が強くなり、ごろごろとかみなりも鳴り始めました。
 いつもは歩いて安詳小学校に通っている柏原の子ども達は、雨が強くふったので、「いやだなあ。」と思いながら、ずぶぬれのかさを持って、満員のバスに乗って登校しました。お父さんやお母さん達も、いつものように、つとめ先にむかいました。
     
 子ども達が出かけた後、8時半ごろには、「バケツの水をひっくり返した」ようなどしゃぶりの雨になっていきました。かみなりもはげしく鳴り、あたりは真っ暗で、とても恐ろしい集中ごう雨になりました。
 このころから、家の近くを流れる小川や水路の水があふれ始めました。柏原の道路は川のようになり、家の中にも水がはいってきました。
 柏原を流れる年谷川もみるみる水がふえ、堤防から今にもあふれそうになっていました。上流からゴミや材木、丸太が流れ、『ガ―ガ―、ガーン』というを立てて流れていました。
 やがて、ていぼうからにごった水があふれ出し、ていぼうをくずしながらどろ水が柏原の町に流れこんできました。
     
 一方、2年前にできたばかりの最新型の平和池も満水になっていました。雨はさらにはげしくふり続き、9時40分、とうとうダムの水はせき止めていたかべをおし流し、下流へと、ものすごい勢いで流れていきました。年谷川を下った水は鉄砲水となって、10時ごろ柏原を一気に飲みこみました。家も人も橋も木もみんな流され、あたりはどろの海になりました。

 これが「柏原平和池水害」です。この水害でぎせいになった人の多くが、家ごと流された人でした。その中にはこんな人もいました。
     
 中川けいじさんは、この水害で2人の家族をなくされました。家から少し離れた小屋に家族をひなんさせていた中川さんは、家族と小屋から脱出しようとしていました。2才のこども「清君」をわらの肥料の上にのせ、次は奥さんを、と思ったとき、奥さんの足が、柱と流れてきた荷車の車輪の間にはさまれどうしても動かなくなりました。 何とかして車輪をどけようとしていたとき、わらに乗せた清君がわらごと流れてしまいました。小屋の水はどんどんふえていき、このままにすれば奥さんはおぼれてしまします。「どうしたらいいんや・・・」中川さんの頭の中は真っ白になりました。
 「清を助けて!」奥さんの叫び声で決断した中川さんは、わらに乗った清くんをだいたまま、だく流に流されていきました。
     
 奥さんはどうなっただろう。小屋にいたお母さんはどうしただろう。そう考えながら流されていた中川さんのまわりには、流木につかまって流されていく人が何人かいました。一人の女の人が流れてきた丸太に乗ろうともがいているのが目に入りました。それは小屋に残してきたお母さんでした。「お母ちゃん、がんばれ。手を出せ。」と叫びました。お母さんの手をつかんで必死に引っぱり上げようとしましたが、手がすべり、とうとう二人の手ははなれてしまいました。お母さんはあれくるった流れの中に消えてしまいました。
 そのまま流されていった中川さんと清君は川はばのせまいところまで来ました。流れがいきなり急になり、水中で何度か体が回転しました。気づくと腕の中の清君がいなくなっていました。
 中川さんと奥さんはきせき的に助かりましたが、あの時どうして二人を助けられなかったんだろうと、中川さんは今でも自分をせめることがあるそうです。
     
 こうして、たった1、2時間の間に柏原は町全体が流され、どろ水にしずんでしまったのです。この水害でなくなった人は柏原だけで75人でした。そのうち子どもは25人。小学校にまだ入っていない小さな子どもがたくさんぎせいになりました。
 家族をみんななくし、一人だけ助かった人もいました。また中には、学校にいっていて助かったけれど、お父さんもお母さんもなくしてしまった子もいました。


     
 水害のあと、全国からのしえんと人々の努力によって、柏原の町は少しずつもとの町にもどっていきました。家が建ち、道路や川の整備も進みました。
 しかし、大切な人をなくした心の傷はなかなかもとにはもどりません。

 水害から2年後、年谷川のていぼうにいれいとうがたてられました。柏原の人たちは、毎年いれい祭をして、ぎせいになった人たちのたましいにおいのりをされています。
 そして、こんな悲しい災害が二度と起こらないように地域で協力し合っています。
     
 ぼくたち4年生は地域の方に話を聞き、公民館にも見学に行って「柏原平和池水害」について学習しました。
 災害から命を守るために大切なことを3つにまとめました。
 1つ目は、「情報」の大切さです。60年前には、どんなに雨がはげしくても、どのくらい雨が降り続くのか、どんな危険があるのかだれも知らせてはもらえませんでした。今は、テレビやパソコンなどで天気予報も警報もすぐに知ることができます。情報をよく聞いて行動することの大切さが分かりました。
     
   2つ目は普段から災害について考えておくこと、準備しておくこの大切さです。
 柏原公民館には、災害に備えてヘルメットや舟、ボートなどがあります。そして、地域で防災くんれんを毎年しているそうです。
 去年の9月1日、防災の日には、詳徳小学校のプールで柏原のひなんようボートこいでひなんするくんれんを4年生と地域の人とでしました。災害はいつ起こるか分かりません。私たちの家でも、防災グッズを準備したり、にげ道や避難場所を家族で話し合ったりしておかなければならないと分かりました。
     
3つ目は、柏原平和池水害を忘れずに伝えて行くことです。まず、自分たちが災害のこわさや命の大切さを知り、それをまわりの人に伝えていかなければならないと考えました。そして、この紙芝居を作りました。紙芝居で一人でもたくさんの人に災害のおそろしさや命の大切さについて知らせ、考えてもらいたいと思います。
 
                          平成24年度 4年生の作品より